マスコミによる情報の変質

さすがの高木さんもやられたなあ…と思ったが,実は私も同様な体験がある.

http://takagi-hiromitsu.jp/diary/20061219.html#p01

昔,ある有名な大手出版社から取材の申し込みがあり,長時間インタビューを受けた.その後,私の発言が技術的に間違って書かれないかを確認したいと申し出たところ,社の方針として事前の記事の確認は一切しないことになっているが(今から思えばたぶん嘘だろう),正確に書くので,とにかくこちらを信用してくれという回答であった.ところが実際に掲載された記事を見てびっくりした…というのは,私の発言の内容が正反対のものとして描かれていた.つまり,その時の取材対象を攻撃するために所属組織名と私の名前が悪用されたのだ.

さっそく広報を通じて抗議してもらったが,相手は一歩も引かず,結局次回に小さな訂正文を掲載することで決着せざるをえなかった.ただ,その論争をした時の記者の一番印象的な言葉は次の通りであり,それで私はマスコミのダークサイド部分をかいま見た気がした.

自分たちの意見を伝えるためには,事実をねじ曲げてもかまわないんだ.それが報道の自由なんだ.

なお,これには後日談がある.ある別の分野のメーリングリストで,同じ記者から取材の申し込みがあったので,誰か協力してくれないかというアナウンスがあったのである.この時までは個人的なトラブルだと思っていたのだが,その後別の関係者から以前に同様な発言改竄の被害を受けたので少し注意した方がよいとの投稿があり,単なる誹謗中傷だと勘違いされたその人が逆に非難され,私は彼の援護に回った.つまり,問題を起こした記者は信念を持って同じ行動を繰り返していたのであった.

高木さんは,「自分なりに理解可能な文章に書き換えて」と書いているが,たとえばかなり技術的な報道発表をした時の報道の内容がたいてい間違っている(苦笑)ことから,確かにそれは正しい.ただし,最初からマスコミ側で記事の内容や方向性が決まっており,識者の発言はそれを補強するためだけに利用されることも結構あるように思う(必ずしも高木さんのケースがそうとは断定できないが).

最後に,私が非常に心を動かされたのは,高木さんの次の一文である.

昔なら、マスコミにコメントを求められるというのは恐怖感を覚えるほど覚悟のいることだった。何を書かれるかわかったもんじゃないという不信感がある。だが、今はまあどうでもいい。日記に本意を書いておけばいいのだから。新聞は新しいことを伝える媒体ではないのだから。

結局,マスコミはたいていの場合は一次情報源ではなく,いろいろな場所から情報を集め,まとめ上げて報道する情報伝達機関にすぎず,それゆえに情報が伝播する過程で(意図的でなくても)大なり小なり情報の変質が起こる可能性が高い.

しかし,すでに我々はマスコミの手を借りずとも,多くの人に直接自分の意見を正しく伝える手段を得ているのだという認識を新たにした.たとえば,今は企業の技術者のブログは非常に権威ある情報源となっており,マスコミがそれを報道するということは,その情報の存在を伝えるだけの役目しか果たさなくなってきている…なにしろ一番正しく詳しい情報は我々の目の前にそのままの形であるのだ.このような時代では,マスコミは,自分たちの意見を盛り込んで加工した上で伝えるという主の立場から,客観的に一時的な情報の存在を伝えるだけという従の立場に移り変わっていくのかもしれない.