国家によるオープンソース振興の是非

最近,なかなか印象的な良い記事を読んだ.

GPLv3、オープンソース振興について聞く:「日本政府はさっさとオープンソース振興から手を引いてしまえ」――VA Linux佐渡
http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0602/08/news036.html

特に,一番(唯一?)国家とうまくやっていそうに思えたLinux分野でも,GPLv3 Conferenceの取り組みがこんなに悲惨だったとは,明らかに私の想像を超えていた.まあ,樋浦秀樹さんにも以前「実際に真の技術を作っていくのは,そういう恵まれない異端者達だけなんだ」と言われたのだが,確かにそうなのかもしれない.

日本のオープンソース振興施策は,オープンソース活動を衰退させる危険があるという意見はさまざまなところで聞く.確かに,彼らが懸案するような問題があるのかもしれない.

一つは,この記事で指摘されているように,重要な技術やノウハウ,そして人脈の蓄積という点がないがしろにされているというところである.喋る言葉が違う日本人はどうしてもコミュニケーションの問題で不利な立場になりやすい.そこで,このような環境を整えれば,自然とうまく回っていくようになるのだが,離れた立場から見ている人はなかなかこれに気がつかない.

その代わりに間違いやすいのが,物に投資すること…つまり建設業と同じようにソフトウェアを作らせること自体を目標としてしまうことである.しかし,それが目的だと作った時点でおしまい,そしてそれが使えなければ何も残らないのである.また,その予算を狙ってさまざまな人間が集まっても,お金がなくなったらそれっきりである,また特定の人や団体の中に技術やノウハウが残るだけではオープンソース的には意味がなく,人と団体を跨る形で残らねばならないのだ.重要なのはソフトウェアを作ると同時に人と人脈を育てるようにすることであり,それができる環境を整えるのが真の振興なのだと思う.

また間違いやすいのが,「国産…」とかいう変な純血主義に走ることである.もちろん,日本から積極的にたくさん貢献しようというのは良いことなのだ.しかし,その場合には,成長するにつれて世界からの貢献が集まり,すぐ「国産」などと言うことはできない状況になるはずなのだ.実際に,MuleRubyの場合には,そういう国際的な状況になっていると思う.でも,わざわざ「国産」という場合には,オープンソースとは対極的なセクショナリズム排他主義がそこにあるということなのだ.また,元Sun MicrosystemsのNobert Lindenbergと高円寺で飲んだ時にも,彼になぜすぐ日本人は日本独自の団体を作って孤立しようとするのだという指摘をされた.これには返す言葉もない.つまり,オープンソース活動に,そのようなことがあってはいけない.この一番の弊害は,本来ワールドワイドで流通すべき知識,技術,コードを分断し,鎖国状態を作り出すこと,そしてその鎖国状態が続くと,当然狭い範囲でしか行動しない方が遅れていくことである.そして,いきすぎた国内限定のプロバガンダにより,国内しか見ない技術者には間違った刷り込みを与えられ,世界の孤児となっていることを良いことだと勘違いしてしまうのだ.

というわけで,これはインタビュー記事だから伝聞にすぎなくて情報も限られるのだが,それだけでもかなり考えさせてもらった.これに対して,よしおかさんは正反対の立場に立っている.

http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20060212#p1

…ように見えるが,実は同じ主張を,一方は現在の問題点として,一方は問題を解決するための提案として述べているだけじゃないかと思う.

なお,私の記憶にある成功した国家プロジェクトの例として,ICOT…つまり第五世代コンピュータプロジェクトを挙げたい.…というと,「それは一番失敗した例じゃないか?」と言い出す人もいるだろう(笑)確かに,「物」に目を向けた場合には,その指摘は正しいかもしれない(苦笑)

しかし,ICOTの良かった点は,日本の大学・企業の研究者・開発者が一同に集まって議論できる場を作ったこと,そして海外研究者を招聘すると同時に日本の大学・企業の研究者・開発者を海外に送り出して対等な立場の技術交流を実現したこと,そして日本のインターネットインフラの整備と普及に一役買ったこと(実はその資金と設備と人材によって,当時日本のインターネット網で重要な役割を演じていたのだ)だと思っている.そしてプロジェクト解散後に,関係者たちが日本のさまざまな大学や企業に散って日本を活性化させたのだ.

このようなことを,オープンソース活動の振興でもできないものだろうか?よしおかさんのこれからの記事でどのような主張をするのか,非常に楽しみである.